いじめの記憶を思いだした

どうしても今日のうちに書いておきたくてブログ開設まで漕ぎ着けた。

 

今日の昼、エモい体験をした。エモいとは書きつつ文字面があまり快くない。いじめられていた記憶を鮮明に思い出したのだ。何の前触れもなかった。職場の手洗い場で、睨み付ける目のイメージが、突然見えたのだ。トイレなんて幾度となく行っている。なんだったんだろう。

 

小学生低学年の頃いじめられていた。背が低くて「おしゃま」な同級生が加害者だった。
たしか表向きは仲良しだった。
宿題のプリントを自分のぶんもやれと言われて、親に気づかれて、ある日毅然と拒否したら、休み時間に笑顔で女子トイレに連れ込まれて、せまい個室に二人で入って内側から鍵を掛けられて腕をつねられる。当時の自分に歯向かうという発想はなかった。いつからか日課のように受け入れていた気がする。
先生にも知れて、その後話さなくなった。あまり覚えていないけれどそれなりに問題視されていたんだろう。

 

そんな記憶を突然思い出して、午後、しばらく動けなくなった。その記憶がトラウマだからではなくて、今の今まで実体験を忘れていたことに驚いたからだ。その人の話を振られたら開口一番、「たしか小さい頃いじめられてた」と言える程度には認識していた。この記憶が心に秘め隠した大部分という訳ではないし、言うほど傷ついてもいない。でもなんで忘れていたんだろう。あんなに鮮烈なのに。
あの寂れた小学校の薄暗いトイレ、仕事をしない蛍光灯、曇り空の明るいグレーがたてつけの悪い窓から見えて、逆光のなか、黒目がちの小さないじめっこが真正面から睨み付けて、歯を食いしばりながら強くつねる。過去が再生されていた。あいつあのとき睨んでたのか。生々しい痛み、痣になったかもしれない、追従しかしないショボい取り巻きがいて、難しくもない宿題プリントが数枚机の上、個室の扉を開ければ何てことない仲良し、元通り……。

 

そうだ、このあと、何があったかいじめっこと仲良くなったんだった。小学校高学年のとき、自宅に招いて、DSのどうぶつの森を一緒にやったの覚えている。特産品が違うねなんて笑いあっていた。この数年にいったい何があったのか覚えていない。
低学年の記憶だけ蘇ったときはいじめっこに報復したい気持ちが渦巻いたけれど、高学年の記憶を思い出したとたんに霧散した。終わりよければすべてよしってことだろうか。怒るのってエネルギー消費が激しくて苦しいから、これでいいか。

 

訳あっていじめっこの今を知っている。
二十歳くらいで結婚して、一子をもうけて、3人でナガサキで暮らしている。
あいつ、いい親になっているだろうか。
子どもに妙なところが遺伝して、いじめっこ2世にならなきゃいいなと思う。対象の子が繊細だったら、周りが手助けしなかったら。そのあとの展開なんて流石に読める。

 

「昔そいつにいじめられていた」という一文だけが脳内に化石か標本か歴史資料みたいに鎮座していたようだけれど、その「昔」が突然息を吹き返して大騒ぎして全身を駆け巡った。全細胞が呆気にとられている。詩的で笑ってしまうけれどそんな感じだ。ものすごい質量だった。仕事の懸念事項がどこかに押し流されて、まだ戻ってきていない。あのときあいつ睨んでたな、と思い出したときは鳥肌が立って、治まらなくて、クソ暑いなか上着を羽織る羽目になった。

 

自分のいま。
最近生きるのが楽しくなり始めた。
昔は辛かった。周りが何を考えているか分からないのがデフォルト。いじめもあった訳だし、よく夕食の席で大泣きした。中学のころは泣き疲れたからか無表情になった。アルバムに笑った写真は一枚もない。
いろいろがんばって、高校くらいから楽しくなった。今や食わず嫌いだった流行りものも楽しめるし、すこし雑談もできるし、面白ければ笑うし、旅行先で人にお土産を買える。心ない罵倒にだって「十人十色だしそういう考えの人もいるわな」「でもあの言葉選びはねーな成育環境が悪かったんだろうな」って流せる。

 

心の成長が遅いんだろうと思っている。ようやく人間になれた感じだ。勿論まだまだ共感力がないし、視野狭窄だし、非常に脆い。それでも過去ありきの今なので、生きづらかった幼少期を肯定したい。それでいいんだよ、よくやった!

 

こういう自分自身の心の成長を誇らしく思う。昔なら、「黒歴史」「人間の出来損ない」とか痛々しく自虐していただろう。負の記憶を足掛かりに、現況を清々しい心地で見渡せるなんて、驚天動地。そんなんあるのか。まだ仕事時間は終わっていない。向かいに座る上司に、挙動不審を指摘されやしないかと内心ひやひやした。

 

昇華? 保健の教科書で見たことあるやつを生体験したってことだろう多分。平成30年8月10日の午後3時ごろ。エモかった。あれからずうっとエモンガみたいにエモエモ鳴いている。形容しがたい感覚が去らない。頭のなかでシンバルを鳴らされたみたいに衝動が止まない。愛読書の恩田陸『常野』シリーズ、あれの「響く」って表現はこれなんだろう。すごい。何も手に付かない。

 

書きなぐってみるとやっぱり支離滅裂だがあとあと見返したときに衝撃の度合いは伝わるだろう。タイトルの割に後味が爽やかでいい気分。共感覚持ちではないけれど、この経験は土留め色から始まったグラデーションの末、きれいなラムネ色に帰結する。
これを読んだ方のなかに、しまい込んだ負の記憶を持つ方がいるだろうか。この体験をどう捉えるだろう。


被害者のままでいたっていいし、ずっと思い出さないまま生きたっていい。人間はばらばらで良し、けっこう自由だって感じている。ただ今日の体験は盲点、第三の選択肢を想起させた。トラウマぎりぎりみたいな危なっかしい過去が、宝石の破片みたく良いものに見えてしまう可能性もゼロじゃないみたいだ。逆転の発想、裏返るネガティブ。闇に一筋の光、淀みが澄んで目に映る。ものすごくエモいんじゃなかろうか。

 

強引にトラウマを乗り越えろとは思わない。というか、辛い記憶を無理やり思いだしてまで希求するものじゃないと思う。心は軽視できない。大切なものは目に見えないとも言うし。
ただ、こういうフラッシュバックに直面したら、あえてプラスに捉えてみるのもアリなんじゃなかろうか。

 

いま自分は本当に社会人なんだろうか。感受性だけ尖った痩せぎすの小学生なんじゃないのか。ラジオ体操をして、宿題を片付けて、扇風機で宇宙人ぶって、半袖半ズボンで祭に行きたい。
そんなことをつらつら考えていたら帰宅時間になっていた。

そそくさと帰る。気を抜くと奇行に走りそうだったので、地を踏みしめて歩いた。
エモい体験ができた今夏を宝物のように思う。只でさえ特別な、「平成最後の夏」だったのに。まだ終わらないなんてうれしい。後悔しないように、満喫しよう。きっともっといいことがある。